ペンギンの読書

読んだ本の感想を綴ります。

創世記 第1章 天地の創造 1:1-31

1:1 はじめに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
第一の日。まずはじめに神は天地をつくる。「光あれ」のセリフが有名なのではじめに作ったのは光と思われがちだが、実はそのまえに天地をつくっていることに注目したい。つくったはいいが、地のほうは混沌としていた。そして、そのほかに気をつけたいこととして、この時点で、闇と水が既にあるということだ。光よりも前に、闇と水、天と地は存在していたということとなる。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
そしてここで光をつくる。そして自分でつくった光を見て、神はよしという。
ここで興味深いのは「光」はまだ何もしていないことだ。光になにか仕事をさせたわけではないし、光によってなにかが暴かれたわけではない。それにもかかわらず神はよしといった。つまり、光はそこにあるだけで意味があるものということがわかる。それはなぜだろう。闇がまずあったからかもしれない。闇だけでは不完全と神は考えたのだろうか。なので対抗軸として、光という概念を生み出した。いずれにせよ、闇と光のの登場順序は重要だと思う。闇がまずあり、そのあとに光ができる。光はあとなのだ。
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
光をつくった段階では光は闇とごちゃまぜになっていたらしい。なので、神は光と闇をわける作業をする。光側を昼と呼び、闇の側を夜と呼んだ。そして、このふたつは分けられたので、同時に存在するのではなくなったようだ。昼と夜は同時に存在できない。片方がやってくると、片方は引っ込む感じだ。これは混沌にルールがたちあがったといえる。混沌から初めての秩序が誕生といえる。そして「夕べがあり、朝があった」という記述!やはり闇が先である。
<1日目の神様's Work>  天地つくる、光作る、闇と光をわけて夜と昼をつくった。
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水をわけよ。」
6節からは2日目である。2日目は水をいじる。「水のなかに大空あれ」ってどういう意味だろう。光あれと同じと考えると、「水のなかに大空よ生まれよ」ということか。つまり大空とは空間、大気のことだな。つまり、大空を作る前は、世界は水でパンパンだったということか。
1:7 神は大空をつくり、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
古代ユダヤ人はでかい水が空のさらに上にある、と考えたのだなぁ。うむ?これってもしや空の色が青いからか?「海と空、おんなじ色やんけ。さてはもともと同じやつやな!」的発想かな。確かに、曇ってる時は空も海も灰色だし、この2つはリンクしているように見える。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
ここで「あれ?」となる。「大空を天と呼ばれた。」とある。天は1:1ですでにつくっていたのではないか。こういうときには原語をあたる必要がある。といってもあいにく私は無能なのでヘブライ語を読めない。なので現代世界で最も普及していると思しき英語版にあたる。1節はIn the beginning God created the heavens and the earth. とある。なんと、天地とは天と地(空中と地面)のことではなく、天国世界と地上世界のことであった。それでは8節の天はなにか。8節はGod called the vault “sky.” And there was evening, and there was morning—the second day. 天はskyなのである。これでしっくりくる。原典にあたるのめっちゃ大事だな。しかし、skyが水を分けた、ということから察するに、創世記を書いた人は、雨はskyのさらに上から降ってくると考えたのだろうか。いやいや古代の観察力はすごいよ。古代人半端ないって。雲が雨を降らしている原因ということなど、もちろん気が付いていたはずである。つまり、彼らのいうskyは雲がある高さまでの範囲を指す言葉なのだ。雲から上は、上の水の世界(この段階では「天国」と断定できないので注意) ここで2日目は終了。
<2日目>空(空間)をつくる。
あんま仕事してないな…。昨日の疲れが残ってるとみえる。初日に張り切りすぎるタイプか。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いたところが現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いたところを地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
 3日目は下の水をまとめるところから入る。1日目の後半にやってた、光と闇をわける作業みたいなものである。「乾いたところが現れよ」とあることから、2日目終了時にはskyの下は水しかなかったことがわかる。それをこうグッと一方に寄せて陸をつくろうというのだ。それ物理的に不可能じゃない?とか思ってはいけない。神さまは万能なのだ。さて、ここの「地」はなにを指すのか、である。8節の「天ってなんのこと」問題の再来。例によって英語版をみよう。英語版では1節はthe earthと訳されていたことは確認済みだ。さて10節はというと、God called the dry ground “land,” and the gathered waters he called “seas.” And God saw that it was good.である。「land」。おもっくそ「陸」だねぇ。かっこつけてないで素直に「陸」と訳してくれ日本聖書協会。そしてちょっと気になるところ。陸はland=単数系、そして海はseas=複数系なのだ。これはどういうことだろう。現代世界では逆だ。世界は、いくつかの大陸とひとつながりの海で構成されているという認識だ。もちろん、これを紀元前のヘブライ人は知らない。つまり、もしかしてseasには湖とか沼とか川とかもはいってる?あれらもれっきとした水だもんな。海の切れ端としての湖であり、川。ここのseasは原典ではなんという単語が使われているのだろう。
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
昨日みたいにもう帰る!とならなかった神、お仕事続行。さすが万能神、体力回復にも長けている。さて、11節目にして初の生命誕生である。意外!それは植物!(妥当か)。ただしここでは、「種」を備えてることを強調してくる神。植物は種が重要。これは、著者が植物を耕作という観点から見ているからだろう。種がないと耕作はできない。つまり、ここの植物とはは、耕作が可能な植物をさしているのである。食べ物としての植物。さっき「初の生命誕生」って書いたけど、ここで描かれてる植物って、生き物としてカウントされていない気がする。たぶんしてない。このあと生まれ出る、すべての生命にとってのエサとしての植物。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
 神「おやすー」。
 
1:14 神は言われた。「天の大空に光るものがあって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
 
1:15 天の大空に光るものがあって、地を照らせ。」そのようになった。
 
1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
 
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
 
1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
 
1:19 夕べがあって、朝があった。第四の日である。
 
1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
 
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
 
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
 
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、血の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
 
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
 
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 
1:27 神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ。」
 
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と草を持つ実をつける木を、全てあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
 
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
 
1:31 神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 

忘却を味方につけよ「脳が認める勉強法」

 

脳が認める勉強法――「学習の科学」が明かす驚きの真実!

脳が認める勉強法――「学習の科学」が明かす驚きの真実!

 

 記憶力が悪いと自覚している。

買おうと思っていた食材、3年ぶりに会った友人の苗字、第四次露土戦争の年、サイン・コサイン・タンジェントの計算方法、オポチュニティのスペル…

この30年間ありとあらゆるものを忘れ続けてきた。忘却の達人といっても差し支えないほどに。

なぜ覚えたことの大半を悉く忘れてしまうのか。

それは僕に限らず、人類永遠の悩みなのかもしれない。

 

しかし、忘れることは敵ではない、と著者は説く。

忘却という現象は覚えたものを忘れるという受動的な役割とは別に

頭に入ってくる情報をふるいにかける、超強力なスパムフィルターとしての役割がある。

これは脳の検索機能を高めるためと言われる。しょうもないことまで全て覚えていたら脳は情報をすぐに取り出せなくなってしまう。

記憶には<保存>と<検索>の2つの機能があり、

一回覚えたことは1000億個のニューロンで構成される新皮質のどこかに電気信号として保存されており

なんらかのきっかけでいつでも意識上に浮上できる準備が整っている。

例えば、幼少の頃両親と一緒に訪れた景色。長らく忘れていたが、似たようなところやその場所を訪れることによってその記憶は昨日のことのように鮮やかに蘇る。

一度覚えたことは忘れない。ただ、無意識下で眠っているだけだ。

そして、忘れたことは、思い出すことによって保存と検索の能力が向上することも実験で示されている。

UCLAのロバート&エリザベス・ビョーク両氏が「不使用の新理論」(覚えるために忘れる理論)と呼ぶこの法則は、その検索が困難であればあるほど、検索後の能力向上成果が

 

本書は、最新の認知科学の知見をもとに、効率的な学習方法を模索する本だ。

学習には歴史がある。5000年の歴史の中で人間は忘却と記憶を紡ぎ合わせ、進化してきた。

時の洗礼を受けて生き残ったそれらにはなんらかの必然性がある。

また、まだ知られていない訓練法もある。

この本はそれらを科学という光を当ててひとつひとつつぶさに検証している。

忘れるとはどういうことか。勉強環境は変えたほうがいいのか。分散学習やテストの効果。

閃きの発生条件や睡眠の作用など、無意識下で行われる活動についても細かく見ている。

特に面白いのは知覚学習の章だ。

これは羽生名人などトップクラスの棋士がいう「直感」、その鍛え方についての考察である。

刻々と状況が変化する飛行機の操縦で、パイロットには瞬時に判断を求められるある種の直感が必要となる。

その訓練を効率良く習得するために開発された訓練プログラムPLMのノウハウは、我が職業であるワイン鑑定にも適応できそうである。

 

これらの良いところは、全てが「日常に組み込める」ものであるというものだ。

あとは自身の工夫とやる気だけである。

忘却を味方につけて勉強を脳に染み込ませろ。

ユージニア

北陸のK市で起きた大量毒殺事件を巡るミステリーの形をとっている。

しかし実際のところ、これはミステリーなのだろうか。

14に分けられた章の半分近くは、ある人物が約30年前に起きたこの事件に携わった人物に事情を聴取するという形をとる。

「何か理不尽なことが起きたとき、人々は皆、理由を求めるのだ。大きな陰謀、邪悪な企み。弱い私たちは、そういうものを作り出さずにはおかない。自分たちよりも遥かに優れた存在に説明を求め、責任を転嫁せずにはいられない」

世界というものは元来、個々人の脳処理では追いつかないほどに複雑系だ。

仏教では、自分に降りかかる全てのことは数えきれないほどに様々な要因が連鎖した上で起こる必然的なものである、という世界の見方をする。

風が吹けば桶屋が儲かるではないが、全てはつながっているのだ。

しかしそんな見方はやはり一般的ではない。

500円玉を拾っただけで小躍りし、人身事故に巻き込まれればなんでいまこのタイミングなんだよと悪態をつくのが人間の性なのである。

その裏には何千というファクターが張り巡らされているとは微塵も思わない。

なぜなら、そのファクターをいちいち全て点検していったら時間などいくらあっても足りないからだ。

そこに人間の能力の限界がある。

しかし、世界は人間の能力に合わせて作られている訳ではない。

人間がつくったシステムが大半にもかかわらず。

創造者たる自負からくる全能感と現実との乖離が発生する。

この乖離を埋めるために、人は陰謀論を作り出すのかもしれない。

陰謀論とは世界をシンプルにするアクロバティックな荒技である。

複雑系にうんざりしてしまった人たちは低次式に魅力を感じる。

物事全てを善と悪に区別することなど不可能なのに、

それを無理矢理にでもやらなくてはいけないと考える人も少なからずいるのだ。